20.3.12

02

山田郁予『安心毛布とかそういうのください』
~VOCA展2012より~

平面作品の領域を越えた、
山田郁予のインスタレーション行為。


 ~新しい平面の作家たち~と題され、1994年に始まったVOCA展。春時雨が降ったりやんだりの上野の森に、今年も40才以下の新しい才能がそれぞれの手法による平面作品を発表した。昨今の現代アートは、映像やインスタレーションといった一枚絵に留まらない表現、すなわち平面を飛び出した多様性を見せている。34名の作家が「平面」という言わば直球勝負の領域で、どう新しい試みを描いたのかを期待した。


 一枚のカンバス。二枚のパネル。布、ガラス板から薄型の液晶にいたるまで、「平面」というジャンルで括られているとはいえ、展示スペースを進むにつれ、多種多様な表現が入り乱れながら押並べられている。複数の作品をハシゴする中で、「これは」という小さなインプレッションはあるものの、圧倒的な世界観を深く感じ得ることが難しい気もした。VOCA賞を受賞した鈴木星亜の作品もまた然りである。少し話しを聞いていた桑久保徹の大作については、予め先入観があったせいか印象に残ったが、こちらはまた別の機会にてふれることにする。


 平面の中でも、写真、映像、半立体といった具合に手法はさまざまで、それぞれの作家が「平面」に対峙する試みを総じて見比べることが出来たのは大変良かった。ただ、もう少し作家の表現に深く入り込んでみたいという欲求に駆られてしまうのだ。では、鑑賞後にこちらから作家に近づいてみよう。帰路の電車の中で、そんな風に思った。自分の中での、アート鑑賞の新しい試みとして…。そこで、『山田郁予』という作家に少し近づいてみることにする。何故、山田郁予なのか?出展作品の中でも彼女の作品には、何やら近づいてはいけないのではないか、そんなオーラがあったからかもしれない。


 山田郁予の言葉はおもしろい。ブログやパンフレットに綴られた言葉。作品やタイトルに表現される言葉。彼女が連ねる言葉の語感や輪郭に触れることで、それは容易く体験できるだろう。「今」という時代を痛快に皮肉ったシニカルな言葉の端端に、もろさや危うさも滲じんでいる。可憐にして、ちょっと危険。薔薇の如く、棘のような鋭さと、赤い花びらのように、深くしたたかで妖艶な魅力が同居する。「不滅の恋人」とか「爆破♥」といった少々過激で尖った言葉を、日本語の持つ奥ゆかしさとTwitter世代ならではのつぶやきとをミックスしたような独特な表現で発信する。


 VOCA展に展示された山田郁予の作品「安心毛布とかそういうのください」は、白い布にアクリルやオイルパステルで沢山の色彩を重ねて描かれた女が浮かび上がる。それは、これまで発表してきたトレーシングペーパーに描く一連の作品と同じ表現である。彼女の平面はけしてスクエアに収まらない。布やトレーシングペーパーは四角と四角を重ねたような版面であり、ときには部分が折り曲げられたり、クシャクシャになっている。その中を女が浮遊する。彼女がモチーフにする女とはいったい何者だろうか。 現代社会にうつろうギャル?。日常を徘徊する生霊にも見える。


 作品の印象を語る前に、なぜ彼女の言葉をクローズアップしたかといえば、考えるに、彼女の作品は大前提としての絵はあるものの、山田郁予という人格、彼女が綴る言葉たち、その全てを含んで成立する一種のインスタレーションなのではないだろうかと感じたからだ。彼女の言葉はいわば装置である。そこから発せられた言葉が彼女の想像上の言霊(ことだま)となり、現実の存在として作品の中に浮遊して現われる。描かれる女は、山田郁予の言葉の精霊たち。それは鑑賞者に媚びることなく現われた存在故、一種の距離感を与えているのだろう。


 そう考えると近づき難かった作品に、少しだけ近づけたような気になる。そこではじめて、他の作家の平面作品とは一線を画す山田郁予の表現を見ることが出来るのである。お近づきの印に、すぐにでも次の彼女の展示を見てみたくなった。もし『貴方は、なんで私に近づくの?』って彼女に云われたら、こう答えよう。『何故ならブログやTwitterがあるから』と。自身が思う以上にきっと「山田郁予」は世の中を浮遊しているのだ。翔んでいるのだ。ただ、その時間に彼女は、箸が転んでも一人。不毛を満喫しているに違いない。


[文・鎌江謙太]