10.11.14

21
レビュー「詩的空間への再参入 ~村上郁のBULB CITIESについて~」

文:斉藤 誠


BULB CITIES」と題された村上郁のエキシビジョンは、白熱電球と古い絵はがきによって構成されたユニークなインスタレーションだ。天井から吊るされた電球の内部には、過去にさまざまな場所でやりとりされた絵はがきが収められている。都市や田園の名所風景、郵便切手、色あせた消印、そして見知らぬ誰かの手によるインクの筆跡は、灯篭のような柔らかい光に燈され、小惑星のように浮かび上がっている。我々の身体はまず、この詩的な空間へと放たれる。

テキストは一部判読可能なものもあるが、電球に収まるサイズにカッティングされているため、全文を読み込む事はできない。部分から全体への通路の遮断は、意味の統合を困難にする。それにも関わらず、集合体として享受可能なのは、視覚的(美術的)な秩序付けがなされているからだ。そこで我々は作者によって視覚的に指し示された何ものか(シニフィエ)ついて意識を向けていく。郵便的コミュニケーションへのオマージュ、不可逆的に進行する脱空間化への反語、あるいは近代以前のインター・シティ的な枠組みの再提示…、我々の意識はさまざまな認識に導かれる。

よく注意して見ると、各々の電球の上部には小さなラベルが貼付されている。そこには消印が押された都市名と送付年月日が記載されている。マドリード、アントワープ、ニューヨーク…。場所は多様だが、年代は195060年代のものが多い。しかしながら、容易に察する事ができるように、構造はこうしたラベリングによっては少しも順序化されない。つまり、選択の恣意性は依然縮減されないままである。村上は自身のステートメントにおいてこう述べている――プライベートな空間の一部だった素材ひとつひとつ分解し組み合わせた電球は、作家が仲介者となり、(中略)現実の再現性の危うさ、記憶すること、忘れることを問いかける、と。つまり彼女は、「私空間/公共空間」「再現性/非再現性」「記憶/忘却」といったコードを、分類のない側に持ち込んでいるのである。これは、境界を越える事を意味する。

ここで我々はひとつの問いにぶつかるはずである。それは、ある対象はいかにして観察可能なものとなるかという問いである。当面我々はスペンサー・ブラウンなどの議論を参照して、「ある対象は分類によってはじめて観察可能となる」と答えておく事ができる。すると、「BULB CITIES」というエキシビジョンにおいて村上は、世界を提示する者(超越者)であると同時に、分類する者、即ち観察者として我々の前に立ち現れる事となる。なぜなら、我々が物事を区別している当のその時に、村上も同じように振る舞っているからである。この二重のパースペクティブは大変興味深い。彼女自身が観察される側に回る事で、我々にも未規定の領域への再参入の機会が与えられるのだ。まさにこれこそが、美術的な方法論なのではなかろうか。


・村上郁 個展「BULB CITIES」@遊工房アートスペース 2014.11.311.23


4.11.14

20
レビュー「原状回復、そして切り開かれるグラフィティの新たな地平」

文:斉藤 誠

まずその卓抜な空間構成力を評価すべきだろう。Hogaleeがこの度IID Galleryで手掛けた壁画空間は、リズミカルな心地良さに満ちていた。音楽的という点でジム・ランビーを彷彿とさせる彼の空間は、シーン毎に巧みに描き分けられた少女の図像で構成されている。これは主観の域を出ないが、Hogaleeの表現空間にはある種のアウラすら漂っていたように思える。

Hogaleeの画は一見するとポップな印象を受ける。が、作者自身が述べているように、グラフィティ色が濃厚である。つまりHogaleeの描く少女は名を帯びない存在として我々の前に立ち現れる。無名(匿名)であるという事は即ち少女の身体に特定の規範や物語が埋め込まれていない事を意味する。その点で、Hogaleeの描く少女はいわゆるオタク的な少女とは一線を画する。意味論としての彼の少女は、90年代的な都市空間における記号的身体の表象である。したがって、我々がそこから取り出せるのは相対的な情報に過ぎないが、その一方でフィクショナルなものへの過度のコミットメントが蔓延し、様々な実存不安や社会不安を引き起こしている今日の時代状況を鑑みれば、Hogaleeの提示する現実空間に根差した身体性は再帰的な意味を持つ。

しかし、現実の社会空間においてグラフィティの介在する余地は狭められている。9・11を契機として人々に内面化された監視社会化の要求は、公共空間の規範化(制度化)を加速させた。アートは、たとえば黄金町バザールを訪れれば明らかなように、アーキテクチュラルな権力の一部と化しつつある。こうしたシステムによる生活空間の植民地化の流れに対し、ある種のアジールを確保する事に意義があるとすれば、Hogaleeが自身の表現の場としてIID Galleryという美術専門空間を選択した事自体、既にリスクである。むろんそれは、グラフィティがシステムに回収される事を意味するからである。

Hogaleeはこうしたリスクに極めて自覚的だった。個展タイトル「原状回復」に表れているように、彼は制度を逆手に取ったのだ。一見ドローイングに見えるHogaleeの少女画は、よく見れば黒いテープ(マスキングテープ)で描かれている。つまり、彼は自身の作品の消去(撤去)可能性を留保しているのである。このカードは、美術の約束事に対するアイロニーであると同時に、常に強制的な消去の危険に晒されたグラフィティそのものの象徴である。Hogaleeは一回性の表象によってのみ成立を担保されるグラフィティの性質を損なう事なく、その表現空間を拡張し得る事を示したのである。

先日閉幕した横浜トリエンナーレ2014は、美術作品を廃棄するパフォーマンス作品《アート・ビン》で注目を集めた。だがそれは、否定する事で逆に自らの存在の強化に寄与したという意味で茶番劇ではなかったか。《アート・ビン》が結果的に指し示しているように、美術制度とはつまり自己保存を目的とした制度である。それは物理的な意味ばかりでない。ベンヤミンの概念を借りて言えば、美術(作品)からアウラが失われてしまったからこそ生じた逆説的規範である。だとすれば、私がHogaleeの表現空間から感じ取ったアウラは、いまだにアート・ビン的な感情保全装置を持ち出してまで戯れ続けるアートシーンの緊張感の欠如と無関係ではなかったかもしれない。

Hogalee個展「原状回復 / Restitution Go Slowly Girl -
 IID Gallery 20141025117