4.11.14

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レビュー「原状回復、そして切り開かれるグラフィティの新たな地平」

文:斉藤 誠

まずその卓抜な空間構成力を評価すべきだろう。Hogaleeがこの度IID Galleryで手掛けた壁画空間は、リズミカルな心地良さに満ちていた。音楽的という点でジム・ランビーを彷彿とさせる彼の空間は、シーン毎に巧みに描き分けられた少女の図像で構成されている。これは主観の域を出ないが、Hogaleeの表現空間にはある種のアウラすら漂っていたように思える。

Hogaleeの画は一見するとポップな印象を受ける。が、作者自身が述べているように、グラフィティ色が濃厚である。つまりHogaleeの描く少女は名を帯びない存在として我々の前に立ち現れる。無名(匿名)であるという事は即ち少女の身体に特定の規範や物語が埋め込まれていない事を意味する。その点で、Hogaleeの描く少女はいわゆるオタク的な少女とは一線を画する。意味論としての彼の少女は、90年代的な都市空間における記号的身体の表象である。したがって、我々がそこから取り出せるのは相対的な情報に過ぎないが、その一方でフィクショナルなものへの過度のコミットメントが蔓延し、様々な実存不安や社会不安を引き起こしている今日の時代状況を鑑みれば、Hogaleeの提示する現実空間に根差した身体性は再帰的な意味を持つ。

しかし、現実の社会空間においてグラフィティの介在する余地は狭められている。9・11を契機として人々に内面化された監視社会化の要求は、公共空間の規範化(制度化)を加速させた。アートは、たとえば黄金町バザールを訪れれば明らかなように、アーキテクチュラルな権力の一部と化しつつある。こうしたシステムによる生活空間の植民地化の流れに対し、ある種のアジールを確保する事に意義があるとすれば、Hogaleeが自身の表現の場としてIID Galleryという美術専門空間を選択した事自体、既にリスクである。むろんそれは、グラフィティがシステムに回収される事を意味するからである。

Hogaleeはこうしたリスクに極めて自覚的だった。個展タイトル「原状回復」に表れているように、彼は制度を逆手に取ったのだ。一見ドローイングに見えるHogaleeの少女画は、よく見れば黒いテープ(マスキングテープ)で描かれている。つまり、彼は自身の作品の消去(撤去)可能性を留保しているのである。このカードは、美術の約束事に対するアイロニーであると同時に、常に強制的な消去の危険に晒されたグラフィティそのものの象徴である。Hogaleeは一回性の表象によってのみ成立を担保されるグラフィティの性質を損なう事なく、その表現空間を拡張し得る事を示したのである。

先日閉幕した横浜トリエンナーレ2014は、美術作品を廃棄するパフォーマンス作品《アート・ビン》で注目を集めた。だがそれは、否定する事で逆に自らの存在の強化に寄与したという意味で茶番劇ではなかったか。《アート・ビン》が結果的に指し示しているように、美術制度とはつまり自己保存を目的とした制度である。それは物理的な意味ばかりでない。ベンヤミンの概念を借りて言えば、美術(作品)からアウラが失われてしまったからこそ生じた逆説的規範である。だとすれば、私がHogaleeの表現空間から感じ取ったアウラは、いまだにアート・ビン的な感情保全装置を持ち出してまで戯れ続けるアートシーンの緊張感の欠如と無関係ではなかったかもしれない。

Hogalee個展「原状回復 / Restitution Go Slowly Girl -
 IID Gallery 20141025117






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