9.9.13

10

映画『わたしはロランス』
美しい色彩と音楽が融合した第七の芸術作品



本作品で監督・脚本、衣裳、編集までを手掛けたグザヴィエ・ドランの徹底したリサーチに裏付けられた90年代という時代表現に圧倒された。ドランが生まれた1989年に始まるロランスとフレッドの物語。近代的なビルと古い建築が混在し融合する90年代のモントリオール。ファッションもインテリアも、 欧米とはどこか違う色彩を放っている。つい二十年前、モントリオールでもトランスジェンダーが精神病として扱われていたということに驚いた。ドランは、自身が同性愛者であることを近年になって告白している。

White Cube(ホワイトキューブ)ではなく、Blue Cube(ブルーキューブ)とも言うべき壁一面真っ青な部屋が透視図的に映され、その中央にはモナリザの額、そしてベッドが置かれている。ベッドの上で主人公である
フレッドとロランスが戯れるシーンから映画は始まる。間もなく、シーンは家の外へと移り、音と色と光が融合したPVのような映像に変わる。

映画の中では、重みを持ったテーマのもとに展開されるストーリーとともに、こうした映像が繰り返される。 作品を観ながら、ときに美術館の中にいるような、またPV映像を見ているような、静かな、しかし震動をともなった感覚に包まれる。

映像には常に中心点が存在し、そこに人物がアップで登場するシーンも幾度となく現れる。ドランの芸術全般に対する細部までのこだわりと、常に「個」である登場人物の苦悩が感じ取れる。 

洗車中の車の中、まだ愛に何の恐れも感じていないロランスとフレッドが話す。
「チョコレートは食べない」という二人だけのスペシャルな決めごと、「黄色は激しいエゴの色」、「茶色は性に対する色」、「赤色は怒りの色、燃え上がる色、スペ シャルな色」、「ピンクは子ども部屋に使ってはいけない」など、言葉の「色」の中に溺れながら、ロランスはフレッドに女になりたいと初めて告白する。
 

ロランス役のメルヴィル・プポーは日本でもファンが多いフランスの俳優である。フランス映画ではイケメン役が多いプポーだが、元々主役に決まっていたというルイ・ガレルよりも、きっとはまり役だったに違いないと感じられる熱演だった。
ロランスの恋人フレッド役のスザンヌ・クレマンは、カナダのTVや映画で活躍する女優だが、おそらく日本ではまだあまり知られていない。しかし、本作ではクレマンの熱演に圧倒された。それは、同性として感情移入してしまうほど、激情的になってしまう女性のもろさと相反した強さが、台詞によって一言も漏らさず表現されていたからだ。
 
キーワードとなる色彩は、作品の随所に登場する。
台詞では語られることのない部分を、壁だったり空だったり景色だったり、聞こえない言葉を発するがその時の感情を確かに現わしていた。そこにいくつもの美しい音楽が絶妙なタイミングで重なっていた。
 
フランス映画祭のとき、「しっかりとしたシナリオで描かれていたのが素晴らしいと感じ出演を承諾した」と話していた母親役のナタリー・バイ。ドランの過去の2作品を観て、母親像を把握していたと話す。母親とロランスが話す台所の黄色い壁が印象的だった。
 
ロランスの「女になりたい」という告白によって激しい動揺と必死の理解を繰り返す中、フレッドの髪の色は赤く染められたまま。二人は別れ、十年が経過する。
 
真っ青な空から、カラフルでポップな色彩の衣類が降り注ぐ中、再び出会ったロランスとフレッドが軽やかな足取りで歩いている。フレッドの髪の毛はまだ赤い。
そ こには、黄、赤、ピンク、青、白など、混じりけのない色彩があり、まるでクリスチャン・ボルタンスキーの『No Man's Land』の、神の手ならぬUFOキャッチャーのような高性能クレーンから降り注いでくるカラフルな衣類作品を彷彿とさせるようだった。それは、神からの 祝福なのか、二人の門出を現わしていたのか。しかし二人は再び別れ、三年が経過する。
 
再会したフレッドの髪の色は、赤から茶に変わっていた。
アメリカから戻ったロランスが心身ともに女になったことを知り、動揺して赤い壁のトイレに逃げ込むフレッド。ラストシーンに流れるCraig Armstrongの「Let's go out tonight」 とともに、茶色の枯葉が舞う中、フレッドが歩いて行くシーンが美しく切なかった。
 
ロランスもフレッドも、出会ったときから絶え間なく相手を好きという情熱で満ち溢れている。本音と本音でぶつかり合う。ロランスはたとえ告白しても、フレッドが望む男の姿のままでいれたかもしれないし、フレッドも自分の心をすべて裸にして告白してくれたロランスへの愛に答えられたかもしれない。双方の一方的な愛の形に「無償の愛」は存在していない。
 
作品を観ながら、昨年、品川の原美術館で開催されていたジャン・ミシェル・オトニエルの『My way』展の会場に足を踏み入れた瞬間の感情が蘇ってきた。映画を観ながら過去の展覧会のシーンが蘇ってくるというのは初めての経験。繊細で美しすぎて、 静かなのに激しい。その中に、言い知れない苦悩が垣間見える。オトニエルも、自身が同性愛者であることを本展で告白している。それが理由か否かは定かではないが、オトニエルの作品に初めて出会ったとき、そしてドランの作品を初めて見たとき、なぜだか同じような温度感を保った美しすぎる切なさを感じた。

本作品は、90年代という時代性、そしてモントリオールという都市、
そこに生まれたある愛のストーリーというだけでなく、90年代のアートシーンやミュージックシーンを赤裸々に描いている時代批評作品としても興味深く見ることもできるのではないだろうか。

フランス映画祭、UPLINKの試写会と二度観ているが、見逃しているかもしれない何かを見つけるために、再び映画館に足を運びたいと考えている。
 
 


[文:新城 順子]




映画『わたしはロランス』
2013
97日から新宿シネマカリテほか全国順次公開

監督:グザヴィエ・ドラン
出演:メルヴィル・プポー、スザンヌ・クレマン、ナタリー・バイ
2012
年/168分/カナダ=フランス/1.33:1/カラー/原題:Laurence Anyways
配給・宣伝:アップリンク





8.9.13


09

2020年夏季五輪開催地選考
東京オリンピック開催決定


"Under Control"の真意、
そして2020の文化発信は如何に。



2020年東京でのオリンピック開催が決定した。
単にスポーツだけの枠にとどまらない世界規模のビックイベントが、日本で行われることはとても素晴らしいことだ。自分はまだ生まれていなかったが、先の東京オリンピック(1964)も戦後日本の経済成長、国民の士気向上やさまざまな国益・国際的発展へと計り知しれない影響をもたらしたことに異論はない。そして、いろんな意見があっていいだろう。

今回の一連の招致活動には、おおいに複雑な思いがあった。
震災後のさまざまな問題に加え、福島の「汚染水」が深刻であるという現状とその招致へのコンセンサス、ならびに開催決定後の影響力を切り離して考えることは出来ないと思ったからだ。

それは「オリンピックなんてどうでもいい」という捻くれた感情ではない。自分も高校まで甲子園を目指して野球をやってきたし、「スポーツ」観戦、ことオリンピックやワールドカップといった世界大会の祭典は、寝る間も惜しんでワクワクするくらいに興味感心がある。そもそもたいていの人がそうだろう。本来は大手を挙げてバンザイといきたいのに、何だかノリきれない人も実際少なくない筈だ。

しかし、このモヤモヤとした感覚の一因は、歓喜する純粋なスポーツファンとは無関係のところで、何か計算されたプロパガンダのようなものが、はっきりと動いていることが透けて見えてくるからだ。純粋に喜ぶ国民同様、安倍総理や猪瀬都知事がさわやかな動機で「素晴らしき感動の祭典を東京で!」と躍起になっているのならまだ可愛いが、アスリートや純粋なスポーツファンをも巻き込んで、名誉の蓄積に翻弄する姿にえも言えない「不格好さ」を感じてしまう。しかしここで言う「名誉」とは巨大ビジネスであり、イメージを操る格好の道具ともなることは明白だからだ。オリンピックを実現させた功労者としてシンボル化される安倍総理。表向き国民の心証は良くなったのかもしれない。ただ、それがとても怖い。

プレゼンにおいて、安倍総理が舌足らずの英語で放った”under control”「状況はコントロールされている」という宣言は非常に重要な言葉だ。言葉のアヤなのだが、日本語で意訳的に言うと「状況を常に(把握できるように)政府がコントロール(情報収集と解決策に取り組んでいる)している」と「放射能が一切漏れないように、完全に制御できている」とはかなり意味が違う。水面下での予断の許さぬ状況を政府が監視していることは、世界世論にとっては、もはや「当たり前」のことと思うため、当然、安倍総理のステートメントは後者として受け止められることだろう。国内ではその「当たり前」が出来ているのか?という議論があるにもかかわらず…

さらにIOCからの質問に際して総理が言った、
「第一原発の港湾内の0.3km範囲内の中で完全にブロックされています。」
「数値は最大でもWHOの飲料水の水質ガイドラインの500分の1であります。」
「つまり健康問題については、今までも、現在も、そして将来も全く問題はないという事をお約束します。」
については、まさに「瀬戸ぎわのチカラ技」としか思えなかった。いち総理の宣言として、国民にこのようなハッキリとした具体的な声明を出したことも無いのに、世界的に注目される場でこう言ってのけた「外ヅラ発言」を疑わずにはいられないからだ。真意は別として、国内でもこれくらい歯切れよく、国民の懸念に応えてほしいものだ。そしてこれは国内を飛び越えて、世界にその責任を表明したことに他ならない。

戦後の復興と3.11からの復興を「オリンピック」に重ね合わせるのは難しいだろう。そもそも「オリンピック」の意味と時代背景が大きく変化している中でカラーテレビが普及し、新幹線が開通し、首都高が循環する。そんな経済神話の契機となることに、オリンピックを期待するのはもはや違う気がする。確かにオリンピックはさらに巨大ビジネス化し、株や地価も上昇することが予測できる。もちろんメディアやメーカー企業にとって大きな経済契機になることは間違いない。しかしもはや経済力(国際競争力)を世界に示す時代ではないのではないか。

さまざまな問題を抱えながら、成熟期を向かえている日本にとってさらに文化(良識)を磨き、世界に示すことがこれから進むべき道だと思う。日本人の素晴らしい文化意識や心意気を世界へ発信する大きなチャンスでもある。おおげさに言うと、そんな日本の魅力こそが、これからの国際社会を引っ張って行く原動力になるかもしれない。

前向きに考えれば、これから7年は世界世論が、日本の原発の問題に注視するはずだ。世界からの監視を維持出来たことは大きなプラスだとも考えられる。オリンピック開催国としての威厳をかけた「いい格好しい」の情報操作や真実をねじ曲げることに”under control” コントロールが駆使されないことを願う。そして、日本人が誇りを持って「純粋」にこの「夢の祭典」に一喜一憂し、楽しむことが出来れば最高だ。

(文・鎌江謙太)